2016年8月6日土曜日

恋の音

 響 和毅(ひびき かずき)は恋に落ちていた。
 彼女に初めて逢ったその日、皿でも割れたかのようなショック音が頭の中で響いた。

 これが一目惚れというものか。

 和毅は引きこもりがちで、普段から友だちや家族とも上手くコミュニケーションが取れないでいた。クラスでは浮いた存在となっていて学校は好きになれなかった。考える必要もないから一人でいるほうが気楽なのだ。
 だが、ずっと引きこもっていることはできなかった。
 和毅には一際 変わり者の姉がいて、二人して偏屈な姉弟と陰口を叩かれることも多いのだが、この姉が和毅を家から引きずり出すのだ。
 睨まれて学校に連れていかれ、勝手にアルバイトの申し込みをされ、町の清掃のボランティアにも駆り出された。
 姉はそんな和毅を心配でもしているのか、いつもアルバイト先に様子を見にやって来る。
 余計な世話だ。勝手なことをされると腹が立つ。監視のつもりか? 憎らしいし、理不尽さに怒りを覚えた。
 鬱陶しいとしか思えなかったが、しかし今では感謝しているところもある。

 彼女と出逢ったのは姉のおかげでもあるのだ。
 嫌だった学校も、アルバイトや町の清掃も苦にはならなかった。清掃のときは彼女も参加しているのだ。見ているだけで幸せだ。他に何もいらないと思ったが、和毅はもっと前に進みたいと思うようになる。

 彼女が近づいてきてそっと手を差し出す。しかし、それは和毅とは別の男に手向けられていた。背の高いぶっきらぼうな男だ。
 手紙でも渡しているように見えた。悔しいし自分が情けない。

 どうして自分があの場所に居ないのだろう。
 和毅はどうやったら自分にチャンスが訪れるのかを考えてみる。紳士的に恰好良く、スマートに振る舞えるように、少しずつ外の世界に慣れて、大人の男になるしかないだろう。だが、彼女に相対することへの恐れが上回って何も手に付かない。手や足が震えて体温が上昇する。
 自分には敵わないのだろうか。
 何も喉を通らなくなる。

 しょせん、引きこもりには無理なことなのだ。
 彼女の前に立つ勇気がない。
 そんな自分にも腹が立った。

 ある日、突然に好機は訪れる。

 アルバイト先のファミレスはいつもと違って混雑していた。
 彼女が精算をしにレジの前へやってくる。姉の里佳子を伴っていた。
 レジカウンターの内側には誰も居ない。やったことはないが大丈夫だろう。たまたま近くに居た和毅は初めて彼女の前に立つことになる。レジでお金を受け取り、精算を済ませる。初めてにしては上出来だ。
 見よう見まねで釣り銭を渡す。

「あっ」

 またあの音が響く。
 だが以前と違って小銭が床にばら撒かれるような音だった。

 店内の客たちが注目していた。こんなことになってしまったのは自らの手が震えて彼女の掌に渡せなかったのが原因だろうか。

「お前ミスばっかだな。先週も皿 割りやがって」
 背の高いぶっきらぼうな先輩の社員に叱られるが、和毅は聞いてはいなかった。

 彼女は焦りながら「ごめんなさい」と言って小銭を拾っている。和毅もそれを手伝った。どうして彼女が謝らなければいけないのだ。悪いのは自分なのに…。

「和毅、取っておけ。お前の小遣いだ。荻原、時間がない。急ぐぞ」
 里佳子がさっさと彼女をつれて店を出て行った。玉高通信の取材活動拠点となっている店なのだ。彼女たちも忙しいらしい。

 少しずつでいい。
 一歩ずつ、彼女の前に堂々と立てるようになればいいじゃないか。
 外の世界にも慣れてきたし、彼女の名前を知ることもできた。
 だから姉にはよくよく感謝している。