2016年3月5日土曜日

海は嫌い、泳ぐのも嫌い

 海が嫌いだ。
 それなのに何で私は来てしまったのだろう。

 冷え冷えの風が心地いい。
 ホテルの涼しい部屋に留まる私はリクライニングチェアに寝転がって微睡んでいた。微かなBGMがどこからか響いてくる。
 海になんて出るつもりはない。
 泳ぎたくないと強烈に思う。水着姿になるのすら嫌だ。ホテルの中でジッとしていようと決めた。それがせめてもの抵抗と言えるし、むしろ南国の正しい楽しみ方のような気がする。

 この旅行は私の本意ではない。
 正確に言えば「連れてこられた」が真実だ。家族旅行なんて何年ぶりかで、私はフランスのルーヴル美術館かイタリアのピサの斜塔が見たかった。そもそも旅行なんてことからして、私は乗り気ではなかったけど、それでも一度は見てみたいと思った。しかし妹がゴネたこともあって行き先は南国のバリ島だそうだ。
 パパもママもどういうつもりで来たんだろう。泳ぐって柄でもないし、さっちゃんのリクエストに答えた形だ。他に行きたいところがなかったのだろうか。
 人生において積極的にバリ島に関する情報を集めてこなかった私にとっては、ここは異世界に等しい。
 住人の方に誤解があるといけないけど私としては病原菌の蔓延が心配だったり、熱射病と重度の日焼けが心配だ。バリ島に関する情報は乏しいからたぶん悪いイメージだけで見てしまっているのだろう。陽気な人々との交流や開放的な文化での生活など、私にとっては神輿の上に祭り上げられるような印象しかない。天岩戸の外へ裸のまま引っ張りだされた心境だ。学級委員に推し出されたようなもので、下着姿のまま生活するような気分。
 とにかくすべてが私には合わないと思う。
 海は嫌いだ。


「あっちゃん、何やってんの?」
「行かない。海なんて」

 照りつける強烈な日差しを避けるようにして、薄暗い部屋の中で寝そべる。私には積極性の欠片だってない。

「海? 何 言ってるの?」
「…、…うん、ええっと。日焼け止め塗るんだっけ?」

 頭の中で繰り返される妹との会話はうまくいかない。どうやって塗ればいいかが解らない。
 何もかもが未知数だ。

「寝ぼけてるの? 何の話?」
「え、いや… 早く水着を買わなきゃと思って…」
「ふーん。え? バリ島 行けなくなったの怒ってるの?」
「…そんなこと、思ってない… 海嫌いだし」

 日本の空は穏やかだ。小鳥がさえずり、静かに雲が流れる。ふと目が覚めて、現実的な自分の部屋の風景が目に飛び込んできた。
「仕方ないじゃんパパの仕事の都合なんだし」
「…そうだね」

 私は虚空を見つめる。
「あっちゃんは開放的なところ嫌いなんじゃなかったっけ?」
「別に… 嫌いっていうか。泳ぐのが嫌いなだけ」
「意外に海好きなんだね」
「…。…泳がない …けどね」
「なんか『饅頭怖い』って言ってるみたい。せっかく水着買うなら市民プール行こうか?」
「いやだ」


「寒いから窓閉めるよ。それに当てつけがましいよ、南国ミュージック」
 さっちゃんは窓をピシャリと閉めるとさっさと部屋を出て行く。 
「いつまで拗ねてんの? あと、ご飯だよ」
「うん」

 私は旅行のシミュレーションをしていただけ。さっちゃんは変な誤解をしている。家族旅行でなくてもパパ抜きで行けばいいじゃないか。だからさっちゃんに夏休みのスケジュールは開けておくように言っておこうと思った。