2016年2月13日土曜日

メモリーがいっぱい

「ドーナツ食べてきません? せんぱい」
「…」
「今キャンペーンで20個食ったらオリジナルの皿もらえるんすよ」
「…」
「一緒に食べよって約束したのになー」
「…うん? また今度な…」

 里伽子は寡黙に歩き、たまきが一方的に喋りかける。二人の帰路にはよくあることだ。

「もうーっ さっきから何を考えこんでんの? せんぱい」
「…何だったかな? いまいち思い出せない」

「忘れてしまったんですか?」
「さぁな?」
「大事なイベントなのかも」
「結局 不必要なことだったんだろうな。その程度のことだ」

 里伽子はそれきりまた黙り込む。
 その程度のことと思いながらも何かとても重要なことだった気がしてならない。今までこんなことなかったのになと思う。不思議な気分だ。

 そもそも長期記憶は苦手なのだ。
 里伽子のメモリーには常に必要なものしかない。目の前のことに集中するために洗練された脳内は常に不純物を排除する。
 例えばたまきの言う約束とやらも、約束した覚えがない。二・三日程度であれば覚えているが2・3週間前のできごとだったらとっくに忘れているだろう。
 だから長期記憶の担当は他人任せだ。約束があるなら相手のほうから連絡してもらうようにしている。もしくはリマインダー機能で未来の自分に対してメールを送っていた。
 だがメールを送るのは特に重要なことだけだ。メールが届かないということはやはり大して頭を悩ますようなことではなかったのかも知れない。

「2月14日はチョコを食べる祭りなのにっ」
「…?」
「だからチョコのドーナツを食べいこーっ」

 たまきは里伽子の周りを周遊しながら歌うように喋っていた。

 優先度は常に入れ替わる。それでも今までたまきの約束は高次元に上がってきたことはない。一緒に何か食べに行きたいという程度の話ばかりだし、取り留めのない話が多いからだ。


「もういいっ。あたしコッチなんでもう帰りますっ」
「そうか」
「一人でドーナツ食べるっ」

 たまきは角の坂道を駆け上がっていった。その後姿が切なく見える。里伽子はそれを見ながら不安定な感覚に襲われた。夕闇に消えるたまきがもう二度と会えなくなるような錯覚に陥る。
 それは初めての感覚だった。
 なぜそこまでドーナツに固執するのか、どんな意味が隠されているのだろう。たまきとの思い出も片っ端から消去されているはずなのに、思い出される映像は笑っているたまきの顔ばかりだ。


 里伽子は踵を返す。たまきの帰っていった方角とは逆方向に舵をとって、明確にどこへ向かうかを思考する。
 カチリと何かがはまった。それはスイッチのように記憶を突き動かした。たまきの出していた信号はやはり取るに足りないものだ。
 里伽子はやっと答えに行き着いた。

「たまき、帰るのはやめて近くの公園に行け。そこで待機だ」
「公園? 行って何するの? せんぱいっ?」

 返事も聞かずにたまきにそれだけ言って電話を切ると、里伽子はなぜか頬が緩んでしまった。


 思い出して良かった。
 バースデーがバレンタインデーと重なるとはユニークな奴だ。
 チョコレートに彩られた小さなケーキでも買っていこう。
 ドーナツも必要だ。プレゼントにねだっていたキャンペーンの皿も手に入れなければならない。

 微かに覚えていたということは里伽子の中でたまきの存在が重要度を増してきているということだ。里伽子にとってかけがえのない…。

 彼女にはこれからも長期記憶を担当してもらわないとなと里伽子は思う。