2015年9月19日土曜日

約束を果たすとき、約束は破られる

 紗智は約束を破ってしまった。

 「一緒に走ろう」と環は確かに そう言った。「うん」と紗智は答えていたのだった。

 だけど、紗智は一人で ひた走っていた。
 周りには誰もいない。環の小憎らしい笑顔が思い浮かぶ。

 環にしても度々 約束を破る。
 環に約束のなんたるかを説いても『馬の耳に念仏』だと紗智は知っている。
 馬に念仏の概念は通じない。 念仏よりも人参を追いかけて先へと走っていってしまう。
 鼻の先にぶら下がった人参だと気づけないのだ。

 紗智はそんな環との約束を破ったからって腐れ縁の関係がどうなるとも思っていない。
 つまり自分は悪くない。


 夕陽が陰り、アスファルトが明度を変える。
 湿った空気に木々が小さく揺らされる。
 決して長くはないコースなのに、ひたすら長く感じる。

 玉高の全校マラソンは佳境だった。
 紗智はやっと中盤くらいだろうか。


 環だって そんな約束 忘れているだろう。
 “大好きな先輩”の前では“友達”の重みなんて、なんて軽いものかと思う。環にとって紗智は かけがえのないもの ではなかったと言える。
 その先輩に少し嫉妬する自分が居た。
「別にいいじゃん。勝手にしたらいいんだ」
 紗智は涙も出ない。環が自分勝手なのはいつものこと…。
 少しぐらい約束を破っても別に構いはしないのだ。


 確かに紗智のほうが運動なんて不得意分野だし、運動不足だし。
 だが、完走が目的ならタイムを気にして先に行く必要性などない。


 何人かに追い抜かされて、微速で歩くように走っていた紗智の前に環の幻影が映った。

 そのシルエットは小さく丸まって、コースの真ん中にちょこんと座り込んでいた。

「ぜーっ はーっ ぜーっ はーっ」
「…何してんの あんた… はぁ はぁ…」
 紗智の見ていたものは幻じゃなかったようだ。

「ぜーっ はし はーっ れな ぜーっ ひっ はーっ」
 環は汗だくだ。
「はぁはぁ… あんた先頭集団だったじゃん」

「ぜーっ 違うよっ はーっ ちゃんと待ってたんだよっ はーっ」
「え? もしかして私のことを? はぁ… はぁ…」
 紗智は目頭が熱くなっていた。

「うんっ ぜーっ だって約束だもんね! はーっ」
「わざわざ待っててくれたの? はぁ… はぁ… でも嘘だよね?」

「ひどいっ どしてっ ぜーっ なぜにそう思うのかっ! はーっ ひーっ」
「あんた、もう走れないんでしょ? どうせ」

「うんごめんっ! はしれーん! はーっ はーっ」
  汗だくの環はそうしてリタイヤを宣言するのだった。

「はぁ… はぁ… 私こそごめんね…。スタートから全力疾走するバカ野郎と一緒に走るのは無理だったから…」
「くっそー 先輩に置いてかれたー!」
「その先輩もすごいね…」
「もぅぎぶー」
 環は大の字になってアスファルトに寝転がる。

「じゃ 私、先 行くね」
 紗智は約束をまた破ってしまうのだった。