2015年8月15日土曜日

 楓は唄が好きだ。

 それ以外は何も好きになれなかった。周りの人やこの世界すらも。

 男の子は特に嫌った。
 自分が十代という特有の性質を持つ年代だから、そう感じるのだろうと理解している。
 だから学校には行きたくなかった。

 暗い。協調性がない。不細工。人間味がない。多くの人が彼女のことを批判する。
 学校でイスを窓に向かって投げたことがある。
 カッターナイフを腕に押し付けたけど痛みを感じなかった。

 何故 怒るのか、何故 嗤(わら)うのか。
 本当は口がきけるのだけれど、誰とも喋らないことにしていた。
 学校は居辛い。休みがちなった。
 高校の受験もしないつもりだった。


 何処だかの大きな病院に連れて行くと両親は言って、楓は黒いセダンに押し込められた。二人は楓のことをいたく心配しているのだ。

 後部座席で窓の外の景色をただながめた。ずっと目をつぶっていようかと本気で思う。
 楓はもう生きていく自信さえない。
 自分の反社会的な性格で社会に出て独りで生きていくのは限りなく不可能だと思えた。

 大人になるなんて不可能だ。

 これから連れて行かれるところは精神病院なのだろうなと楓は思う。
 精神に異常はないつもりだが、周りの人間にしてみれば充分に異常なのだということだろう。
 誰にも会わなくて済むならずっと閉じこもっていた方が良いのかも知れない。


 医師の頭は禿げ上がっていた。
 楓の嫌う男性だ。
 同年代の男の子よりは幾分ましではある。

 楓は彼を睨んだ。

 両親はしきりに何かを訴える。
 医師に訴え続ける。
 涙を流して。

 楓は窓の外を見ていた。 

 不治の病。

 重病らしい。

 医師は優しく言葉をかける。入院を勧めているようだ。

 楓はしっとりとした自分の髪を弄んだ。
 手入れをしてなくて毛先が撥ねている。

 いっそ殺してくれたら楽なのに。


 病院での生活は酷く退屈だった。それでも病院以外の場所でもそう変わりはない。


 楓は唄うことにした。


 窓は格子が付いていてベッドは少し固い。看護婦はあまり喋らない人だった。機械のようであると感じた。

 医師は毎日、楓の部屋を訪れて独り言を喋った。楓に語りかけているかのようでもある。植物に話しかけるのと大して変わらない。
 医師は同じ話をすることもあった。一日に二度三度と訪れることもあった。
 来る日も来る日も、植物に水をやるように。
 頭を抱えて耳をふさいで、いくら遠ざけても無駄だった。

 始めの頃は鬱陶しいと思っていた楓だが、やがて諦めてラジオか何かだと思うようにした。
 何でそうするのかを聞いてみようと思ったこともある。だけど口を利くなんてしたくはなかった。

 念仏のように頭に響き渡る。

 世界で見てきた人が死ぬ話や見たことも食べたこともない食べ物の話が頭にこびりつく。

 両親は二・三日に一度は顔を出した。着替えやCDの差し入れ、外国の絵葉書をよく持ってきた。

 二年はそんな暮らしが続いた。
 単調で良い暮らしだ。


 あるとき、医師が急に現れなくなった。

 それが一週間続き、二週間も続いた。

 鉄の看護婦は何も言わない。

 楓はドアを見つめた。

 何故か絶望的な気分になる。

 自分の心境の変化に気付いた。
 両親がやってきたとき、初めて涙が溢れた。
 
 両親は楓が先日、二十歳になったのだと告げた。
 それが何を意味するのか楓は考えてみたが解らない。

 新しい医師が現れた。若い女性だ。

 退院しても良いと彼女は言い放った。始めから何処も病んでいなかったとも話した。

 楓は独りでは何もできない。
 ここに残りたいと思った。
 しかし社会に戻らなくてはいけないと誰もが言う。

 あの医師は死んだのだろうか。
 それがどちらであっても、死んだものと楓は理解することにした。



 やはり社会に戻っても何一つ好きになれない。
 両親の経営している喫茶店で手伝いをすることになった。
 言葉少なだが必要最低限の会話を人と交わした。
 もう誰も楓のことをとやかく言わなくなった。

 未だ この世界は楓にとって生き辛い。
 あの頭の禿げた医師は楓によく食べ物の話をしていた。

 今それを思い出して無性に哀しくなる。
 腹の音が鳴る。

 穏やかな風が吹く。

 虚ろな町並み。
 楓は店の前の掃き掃除をしながら変わっていくのだと思った。
 ふいに涙がこぼれ落ちる。

 一番大きな変化は以前よりも もっと唄が好きになったということだろう。
 自然に鼻唄を零すなんて。

 それを頼りにしてただ楓は生きている。