2015年8月8日土曜日

私は幽霊 〜いつも通りの朝を迎える〜

 朝、起きると私の身体はなくなっていた。

 比喩でもなんでもない。本当になくなってしまった。

 自分で自分の身体を認識できない。思念というのか、意思というのか、考える頭だけがそこにあるようだ。

 一瞬は混乱したけど、不思議と何だ、いつも通りの朝だと思い直した。

 妹に聞いてみようと思ったけど彼女の姿はどこにもない。先に起きてダイニングにいったのかも。


 ぼーっとしている。

 ふわふわとした気分。

 布団から抜けだして視点が上昇する。立ち上がった感じがしない。浮かび上がったようだ。
 地に足がついている感覚がまったくなかった。物もさわれない。目覚まし時計がうるさいんだけど誰か止めてくれないかな。

 透明人間…、いや幽霊のようなというべきか。

 それでも妙に落ち着いていた。驚きもしない。やっぱりいつも通りの朝で、いつも通りの自分で、なんの変哲もない日常なんだ。

 自分の長い髪やお気に入りのパジャマは感覚がないけど、確かにそこにあるような気はする。


 すう…っと戸を開けに向かった。


 ふすまは触れられないし、私にはそもそも手というものがなかった。

 いつも通りの朝の行動であって、そこに不思議は何もない。身体がないのだから当たり前のことなのだ。

 今までどうやって戸を開けていたんだっけ? これは夢なのだろうか。

 でも、この落ち着きようといったらないな。焦りもしない。何とかなるだろう。今までも何とかなっていたんだろうし。

 普段は疑り深くて、考え事をすることの多い私だが、幽霊になると考え方が楽天的になるのだろうか。それだとありがたいんだけどなぁ。


 ふと戸は通り抜けられるものだと思って、自分には手があるものだと無意識に手を前に突き出してふすまに向かう。
 触れられなくて、そのままめり込むような気がした。身体がないのに、身体があった頃の私を引きずっているんだ。

 右手がふすまに当たって、次に身体がめりこんでいく。

 やはり何の感触もない。

 身体がないんだから当たり前だ。早く慣れなきゃ…。


 部屋の外はいつも通りの家の中と変わらない景色。美味しそうなベーコンエッグの匂いがした。一滴も飲めない珈琲の香り。パパの新聞をめくる音やママが忙しそうに歩くスリッパの足音。


 でもそこに家族の姿はなかった。


 そりゃ消えてしまえなんて一度は思ったことがまったくないわけじゃないんだけど…。

 私と同じようにみんな身体がなくなったのだな。そういうことにしておこう。

 いつも通り、ダイニングに入ろうとして、戸は開いていたからいいけど、何だか怖いなと思ってしまった。
 本当にこんな日常だったのだろうか。
 この戸は実は閉まっていて、そしたらさっきみたいにちゃんとすり抜けられるのか不安になってくる。

 壁に当たってもきっと大丈夫だし、意思だけならどこへでも移動は自由なはずだ。


 ゴンッ


 …。

 何かが私の額に当たった気がする。

 壁?

 ダイニングの入り口に障害物なんてあるわけない。

 何なのだろう、この状況は。いつも通りの生活をしていたつもりだが、私はどこか別の世界に迷い込んでしまったのかも知れない。

 あれ、でもこれが当たり前の日常ではなかったのか。

 どっちだか解らなくなってしまった。


「なにやってるのあっちゃん?」


 声?

 …と、私はゆっくりと目を開けてみる。

 目の前で妹がご飯を食べていた。


 世界には妹と私、二人だけ?


「なに寝ぼけてんの?」
 妹はいつも通り憎々しげだ。

「あっちゃん、目覚まし止めて、顔洗ってきな」
 ママが私の顔も見ずにキッチンに立ってベーコンエッグを焼いていた。

「…」
 パパはもちろん黙って新聞を読んでいる。

 何だ、みんないるんだ。


「…さっちゃん…、おはよう…」
 私は自らの身体を確認してみると、ちゃんとパジャマを着ていたし髪もぼさぼさだった。

 人間の認識なんてあやふやなものだ。

 ダイニングの入り口だと思っていたところは1メートルほどずれて、私は壁にぶつかっているんだから。

 ふすまに関しては始めから開け放しで寝ていたようだ、私は。

 何だ、いつも通りの朝だな。